8月9日は長崎原爆忌。1945年8月9日11時2分。たった1発の爆弾で一瞬にして小さな町の7万人のいのちが消えた。爆弾が炸裂した浦上は長崎でもクリスチャンが多く住む地域で、ここで失われたクリスチャンの数は8500人とも言う。「怒りの広島」に対して「祈りの長崎」という言葉が生まれた理由はここにあるようだ。当時17歳だった僕の叔母は浦上近くの軍需工場に出仕していてそこで被爆した。原爆投下の前に米軍機から投下された原子爆弾用計測機器類は黄色いパラシュートに取り付けられていた。叔母はふと空に黄色いパラシュートを見て奇妙な予感に襲われ、敵軍の兵器に詳しい友人に尋ねるために地下の電気室へ駆け込んだ。友人を連れて地上に出るその直前に原子爆弾は炸裂し、もの凄い音と爆風で叔母は気を失った。気づいたときにあちこちに酷い怪我をしていたが生きていた。地下室から出る直前だった為に直接光を浴びずに済んだから皮膚にケロイドは残らなかった。長崎の町は方角すら分からないほど何もかも破壊され尽くしていたので稲佐山を頼りに実家へ帰り着いた。実家は浦上から山ひとつ反対側だったため破壊を免れていた。右耳の脇にガラスによる裂孔があり、暫くは血が止まらず毎日患部にウジが湧いたけれども、弟に一々ピンセットで取って貰いながら朦朧としながらも生き伸びた。伯母さんから「血を綺麗にするから」と、ドクダミを煎じたものを毎日バケツ一杯も呑まされ続け、やがて血は止まった。これらのことは全て叔母から直接聞いた。日常生活はすぐには戻らなかったが、叔母はこれで命を取り留め、結婚もし、娘を二人産み育て、50年生きて、やがていわゆる原爆症に襲われ、5つの内臓を原発癌で失った末に67歳で身罷った。彼女は生前、原子爆弾の投下を「もう恨んでいない」と言った。戦争さえしなければ良かったが、これは戦争だから仕方がないのだ、と。兵器は人間が作る。人間の心に悪魔が棲んでいるから、次々に酷いものを作る。日本が先に作っていたら見知らぬ国の誰かが広島や長崎の人々のような目に会っただろう。日本がそんな酷いことをしなくて良かった、と。戦争について言えば戦勝国に戦争の痛みは残らない。敗戦国だけに痛みが残る。戦勝国には戦争に勝った記憶だけが残り、勝ったことが「正義」になる。負けた方は負けたことで己の「悪」の負い目ばかりが残って行く。今の世界でも最後に勝った国が自国の「正義」を振りかざして他国を力で抑え込もうとする。人間は愚かだけれども、この一線を踏み越えてはならなかった。原子爆弾の投下は人間が最後の一線を踏み越えた瞬間だったと思う。もう二度と、決して許してはならない。僕は蟷螂の斧しか持たないけれども、叫ぶことを諦めてはいけないと自分に言い聞かせて居る。
まさし拝